ふゆのはいまメモ

シューティングゲームをやったり、作ったり。

ブレードランナー2019を観てきました(ネタバレ注意)

一度観ただけなので、今後見方も色々変わっていくんだろうけれど、ひとまずは観終わった時の気分が残っている今のうちに記録を残しておきたい。

※ネタバレしてるので注意は各々よろしくお願いします。

 さて2049。主人公の存在に関する謎解き、前作の伏線回収が物語の大きな導線として配置されているように見えるけれど、ドラマが喚起する感情は明らかに違う場所に着地するように計算されている。そして、このズレは意図的に注意深く設定されていると思う。

 

海外では興行収入面ではイマイチだったようだが、観るとなんとなくその理由がわかる。2049の中心に据えられた大きな事件はある『妊娠』そして『特別な子供』なんだけど、明らかにテーマはそこではない。そして、その事で女性客の共感がおおいに削がれてしまったのではないかと感じた。

ちなみに作品世界では女性が様々な所で権力を持っており、ある種の運動があの未来世界のなかでそれなりに達成されたのだろう事がわかる。主人公Kの上司も女性である。

 僕はこの映画のテーマやストーリーの骨子は『精子』すなわち『男性』だと思った。

主人公Kが『隠された特別な存在』ではないか?という疑念。これがKの行動における原動力だ。

Kは過酷で非情な任務を遂行していく。そして精子のように物語の中核にたどりつき、受精に成功する。だけど、それが当初思っていたような卵子では無かった事が終盤で明らかにされてしまう。

このハシゴの外し方は見事で、サスペンス映画ならクライマックスでもいいくらいだ。

 劇中、Kに関係する人物は殆どが女性だが、Kは生身の女性には興味を向けない。繁華街の娼婦や上司の『マダム』はKを誘惑するけれどKはその期待に応えない。ホログラムのヴァーチャルアイドルみたいな商品、ジョイにだけ心をひらいているように見える。

このジョイとの交流は『本物』で『奇跡』みたいに演出されている。娼婦を交えた独特のラブシーンは文字通り現実にグリッチが発生するような美しさがあったと思う。

 Kは『自分こそが隠された子供ではないか?』という疑念(期待)とジョイとの疑似恋愛を支えに悲惨で滅びに向かっている世界をゆく。

でも、物語の三分の二が終わったあたりでKの正体が判明する。物語の鍵を握る『子供』を隠し通すために用意されたカムフラージュ、ダミーである事がわかる。自分が特別な『子供』自身ではないかと思えた根拠たる幼少期の記憶も植え付けられたものだった。そして肉体は作られたレプリカントの量産品だ。

同時にストーリーに登場するデッカードの『特別性』と嫌が応にも比較してしまう訳でその差は歴然。観ているこっちの方が辛いくらいだ。しかも、ついさっきまでその特別なデッカードが自分の父ではないかと錯覚していたという悲しさ。

 全てを失って、これまでKを追いかけていた者たちも去っていった。存在意義が全て剥奪されてしまうようなこの場面は思い返すとKにとって『受精』の場面だったんだと思う。そして、特別でも何でもない生が続いていく。

次に満身創痍のKの前に現れるのがCMなどで話題になった巨大ホログラムのジョイが登場する場面。まさかこんなに哀しい場面だとは思わなかったよ。

僕らはゲームでもなんでも、フィクションに本気になれる。ゲームの擬似恋愛だって本物だと思えるはずだった。この場面で巨大なジョイが看板の中に帰っていくシーンはかなり意地悪に『疑似への本気』が本当に『本気』なのかを突きつけているように思えた。ここでの『男はつらいよ』感は相当なものだ。

Kとジョイが娼婦の体を介して交歓するあのラブシーン、このシーンを踏まえて振り返ると『こういう使い方』がマニュアルとして普及してたんではないかと邪推することもできる。そう考えるとあの場面の特別感すら剥奪されてしまう事になる。

 そして、Kにはデッカードを殺せという新しいミッションが与えられるんだけど、それを拒否する形で物語は終わる。

Kのストーリーが長い映画の途中で終わってしまうので、観客の感情移入は宙吊りになってしまうように感じるかもしれないと思った。

一応、全体としてはデッカードが『隠された子供に会う』という結末が用意されていて、それはもう一つの『受精』だったと言える訳で、前作も含めた2つの輪がきれいに閉じた作りとすると実によく出来ていると思う。

ラストシーンでKに向かって降り注ぐ白い雪のぐねぐねと曲がりくねった軌跡はまさに精子の象徴に見える。そうそう、『男ってツライよね』

でも、生まれてきたことが『奇跡』じゃなくてどうするんだよ…。

 

2049は特別じゃない、消耗品としての男性性が強く出ている映画だと僕は思った。ドラマ的には盛り上がらないんだけど、Kが全て剥奪されてしまった後が本番で、あの根拠のなさ、自分の信じるものが崩壊したグラグラした感じで人生が続いてしまうのがなんとも切なくてリアルだ。

僕個人の印象だけど、監督は多分ジョイとの恋愛みたいな儚いものを『信じている』と思う。劇中ではバッサリと『そういう商品にすぎないんだよ』ってやってるけど、疑似だろうがなんだろうがその感情はホントだって思いたいっていう気分だったんじゃないかな。

じゃないとつらすぎるよね。ほんと。